協会会長の一存でひっくり返ったトルシエ監督「解任」決議

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 【あの代表監督の成功と失敗】フィリップ・トルシエ

 フィリップ・トルシエ監督(63)は1998年9月の就任後、何度も解任危機に陥った。

 特に2000年6月には、契約切れをもって「勇退」が既定路線だった。この年のA代表は低迷が続き、4月の日韓戦(ソウル)にも0-1で敗れ、クビの理由には事欠かなかった。

 技術委員会で多数決をとると、「解任4票、続投3票」。ところが、日本協会の岡野俊一郎会長(故人=昨年2月死去)が「続投させる」と決議をひっくり返した。

 昨年5月、東京で行われた「岡野さんをしのぶ会」に出席するため、トルシエ氏はわざわざフランスから来日。「岡野さんは私に『君は僕の息子だ』と言ってくれた。『安心しろ、君を支えるから』とも」と涙ながらに振り返った。

 02年の日韓共催W杯本大会では、エース格だった中村俊輔(39)=現磐田=を最終メンバーから外した。しかも、それを中村本人に告げる役を協会スタッフに押しつけている。さらに「強豪国はそうしている」という理由で、最終メンバーの発表会見にも同席しなかった。

 その後、担当記者の前で「シュンスケは私の戦術では機能しない」と明言。代わりにベテランのFW中山雅史(50、J3沼津)、DF秋田豊氏(47)を招集した。

 結果的に、本大会では史上初の1次リーグ突破。ところが、トルシエ監督は「ここから先はボーナスだ」と、決勝トーナメント初戦のトルコ戦では、それまで一度も試したことがなかった1トップ(FW西沢明訓氏)を採用した。2列目にはMF三都主をスタメンで起用。これが裏目に出て0-1で惜敗した。

 これに烈火のごとく激怒したのが、次に日本代表を指揮することになるジーコ氏(65)。

 それまでは「すぐ解任になる代表監督だけは絶対にやらない」と断言していたが、この試合をきっかけに日本協会のオファーを受ける決意をした。後日、「日本代表はあのときベスト16で満足した。普段通り戦えば、もっと上に行けた。だから許せなかったんだ」と説明した。トルコ戦があのていたらくでなかったら、ジーコジャパンの誕生も永遠になかっただろう。(夕刊フジ編集委員・久保武司)

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